#043-2 ボヘミアン・ラプソディが放送禁止曲だった頃

前に「ハリウッドキッドの生涯」という小説が出て映画化された時、こう考えた。韓国で映画にはまって思春期を送った「ハリウッドキッド」が1940〜1950年代初頭生まれに多いなら、1950年代後半から1960年代に生まれた人々の中には、英米の洋楽に夢中になって青春時代を送った人々の方が多いだろうと。ではこの人たちを何と呼ぶか。ロックンロールキッド? ポップソングキッド? 適切な言葉を見つけられなかったが、最近大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」の映画評を見て、英米の洋楽と一緒に成長した人たちが本当にたくさんいるのを実感した。

전에 “헐리우드 키드의 생애”라는 소설이 나오고 영화화됐을 때 그런 생각을 했다. 한국에서 영화에 빠져 청소년기를 보낸 ‘할리우드 키드’가 1940~1950년대 초반 태생 중에 많다면, 1950년대 후반부터 1960년대에 태어난 이들 중엔 영미 팝송에 미쳐 청소년기를 보낸 이들이 더 많을 거라는. 그럼 이들을 뭐라고 부를까. 로큰롤 키드? 팝송 키드? 적당한 말을 못 찾았는데, 최근 대박을 터뜨린 영화 <보헤미안 랩소디>에 대한 관람평들을 보며 영미 팝과 함께 성장한 이들이 정말 많음을 실감했다.

友人や兄を通じて、人生の歌を知り、発音どおりに書いたハングルで歌詞を覚え、音量をめいっぱい上げて親に怒られ、不法にコピーしたレコードのアルバム「ペクパン」(Back版、不法に複製したレコード)を買い…。40代後半以降の世代の観覧評には、こんな理由とともに、当時はクイーンの評価があまり高くなかったという話も必ず入っていた。

친구나 형을 통해 인생의 노래를 알게 되고, 발음대로 적은 한글로 가사를 외우고, 음량을 있는 대로 키워 듣다가 부모에게 욕먹고, 불법 복제한 레코드 앨범 ‘빽판’을 사고…. 40대 후반 이후 세대의 관람평들엔 이런 사연과 함께 당시엔 퀸에 대한 평가가 그리 높지 않았다는 얘기도 꼭 들어가 있었다.

私もそうだった。週に2、3回は下校途中に光化門のレコード店に立ち寄った。そこでは外国の歌手の新しいアルバムが発売され、米軍部隊に到着するやいなや、すぐ複製してペクパンとして売り、毎週ビルボードチャートが印刷された紙を無料でくれた。自分なりにアーリーアダプターのつもりで、チャートに新しく登場した曲のうち、興味を引かれるものに線を引いておいて、米軍放送ラジオの「アメリカンTOP40」でその曲が出てくるときに録音して聞いて、よければペクパンが出るとすぐ買って…禁止曲?「ボヘミアン・ラプソディ」を含め、その当時私が好きだった曲の大半が禁止曲だった。韓国では禁止しても、米軍放送ではものともせずに流れていて、ペクパンには禁止曲がすべて含まれていた。

나 역시 그랬다. 일주일에 두세 번은 하굣길에 광화문의 레코드 가게에 들렀다. 거기선 외국 가수의 새 앨범이 발매돼 미군 부대에 도착하자마자 바로 복제해 빽판으로 팔았고, 매주 빌보드 차트가 인쇄된 종이를 공짜로 줬다. 나름 얼리어답터랍시고 차트에 새로 진입한 곡 중 관심 가는 것에 줄 쳐 놓고 있다가 미군 방송 라디오의 ‘아메리칸 탑 포티’에서 그 곡이 나올 때 녹음해 듣고, 좋으면 빽판이 나오자마자 바로 사고…. 금지곡? ‘보헤미안 랩소디’를 포함해 그 당시 내가 좋아했던 곡의 태반이 금지곡이었다. 한국에선 금지해도 미군 방송에선 아랑곳없이 흘러나왔고, 빽판엔 금지곡이 다 담겨 있었다.

しかし、洋楽の歌手やグループについては、だいたい知っているだけで、近況やアルバムの制作過程のようなものは分かりにくかった。政府は禁止曲だけでなく、洋楽文化全般を退廃したものとして見なし、多くの教師と親も、クラシックは高級な音楽、洋楽は低質な音楽という論理のもと、学生が洋楽を聞くことを嫌がった。洋楽をそうやって聞きながら、洋楽の歌手を芸術家としてよりはアイドルとして好きだったのではないかと、大人になってしばらく後にビートルズの「ゴールデンスランバー」「キャリーザットウェイト」の歌詞を接した時に思った。

하지만 팝 가수나 그룹에 대해선 대충만 알 뿐 근황이나 앨범 제작 과정 같은 것은 알기 힘들었다. 정부는 금지곡뿐 아니라 팝문화 전반을 퇴폐시했고, 상당수 교사와 부모도 클래식은 고급 음악, 팝은 저질 음악이라는 논리 아래 학생들이 팝송 듣는 걸 꺼렸다. 팝송을 그렇게 들으면서도 팝 가수들을 예술가로서보다는 아이돌로 좋아했던 것 같다는 생각을, 어른이 되고도 한참 뒤에 비틀스의 ‘골든 슬럼버스’ ‘캐리 댓 웨이트’의 가사를 접했을 때 하게 됐다.

この曲は、ビートルズが一緒に録音した最後のアルバム「アビーロード」に収録された曲だ。メンバーたちはこの曲を録音するとき、解散を念頭に置いていた。10年間に一緒に曲を作って歌い、ビートルズらしい独創性を作り、守ろうとして、お互いに意見を戦わせていたのだろう。最後に合唱したその歌の歌詞だ。「君たち、これから君がその重荷を背負っていくだろう。長いこと」。感激した。創作には言い訳がなく、ひたすら自己責任で行かなければいけないという言葉に聞こえた。そのビートルズのメンバーの年齢が26〜29歳だった。

이 곡들은 비틀스가 함께 녹음한 마지막 앨범 <애비 로드>에 실린 곡이다. 멤버들은 이 곡을 녹음할 때 해산을 염두에 두고 있었다. 십년 동안 함께 곡을 만들고 부르며, 비틀스다운 독창성을 만들고 지키느라 서로들 지지고 볶고 했을 거다. 마지막으로 합창한 그 노래의 가사다. ‘얘들아. 이제 네가 그 무게를 지고 가야 해. 오래도록.’ 뭉클했다. 창작엔 핑계가 없고, 오로지 자기 책임으로 가야 한다는 말로 들렸다. 그때 비틀스 멤버들의 나이가 26~29살이었다.

クイーン?当然好きだった。世運商店街でクイーンのステッカーを高い金を払って買って、ボールペン、ノートに張った。メンバーのうち、黙々と立ってギターを演奏する、背がとても高いブライアン・メイが好きだった。それでもあまりにも何度も聞いて、特に「ボヘミアン・ラプソディ」は、ラジオから流れるとチャンネルを変えたこともあった。しかし、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行ったとき、観客で埋め尽くされた劇場で、あの歌の最初の小節がピアノで流れてくるとき、胸がなぜあんなに高鳴ったのか。クイーンもビートルズと同じだった。互いに戦いながら創作の重荷を背負って行った。芸術家にそれ以上何が必要だろうか。

퀸? 당연히 좋아했다. 세운상가에서 퀸의 스티커를 비싼 돈 주고 사서 볼펜, 공책에 붙였다. 멤버 중에 묵묵히 서서 기타를 연주하는, 키가 아주 큰 브라이언 메이를 좋아했다. 그래도 워낙 많이 들어서, 특히 ‘보헤미안 랩소디’는 라디오에서 나오면 채널을 돌리곤 했다. 하지만 영화 <보헤미안 랩소디>를 보러 갔을 때, 관객 가득 찬 극장에서 그 노래의 첫 소절이 피아노로 흘러나올 때 가슴이 왜 그렇게 뛰던지. 퀸도 비틀스와 같았다. 서로 싸우고 다투면서 창작의 무게를 짊어지고 갔다. 예술가에게 그 이상 뭐가 필요한가.

この映画の興行について「50〜60代世代の同質感回復」「新旧世代間の共感」など、温かく見る報道が出る。しかし、一つのことにだけは寛大になってほしくない。創作物を検閲し、禁止していた歴史、人々、彼らの考えには。

이 영화의 흥행을 두고 ‘50~60대 세대의 동질감 회복’ ‘신구 세대 간의 공감’ 등 훈훈하게 바라보는 보도들이 나온다. 하지만 한가지에만은 관대하지 않았으면 싶다. 창작물을 검열하고 금지했던 역사, 사람들, 그들의 생각에는.

'보헤미안 랩소디'가 금지곡이었던 시절의 이야기
전에 라는 소설이 나오고 영화화됐을 때 그런 생각을 했다. 한국에서 영화에 빠져 청소년기를 보낸 ‘할리우드 키드’가 1940~1950년대 초반 태생 중에 많다면, 1950년대 후반부터 1960년대에 태어난 이들 중엔...

ちょっと用語解説

팝송【Pop Song】

洋楽のこと。今はKPOPという言葉が表れてややこしくなりましたが…。

가요【歌謡】

韓国の歌謡曲のこと。最近は死語かもしれません。

빽판【Back版】

本文では「ペクパン」と訳しましたが、違法複製されたレコードのこと。「裏」や「物陰」といった意味で使われる「Back」が語源と思われます。

세운상가【世運商街】

今は解体されて跡形もありませんが、ソウルの鍾路3街から乙支路3街までの一角にあったコンピューター部品などの専門商店街。小さな専門小売店が密集し、違法コピーものなどアングラ商品が売られる場でもありました。

ちょっと背景解説

軍事独裁政権で様々な音楽が禁止されていた1970年代の青春模様という感じのエッセイです。

韓国では1965年に「レコード法」(音盤に関する法律)が制定され、すべてのレコードは事前審査制となり、発表前に納品して審査を受けないといけませんでした。90年代半ばまで、CDにはすべての曲に登録番号がふってありました(1996年に廃止)。

審査する主体は時代によって名前が変化しますが、レコード業界団体の自主規制という形を取りつつ、実質的な国家による検閲が続いていました。

連動する形で放送業界にも官製機関・自主の両面による規制があり、放送できない曲が多数ありました。

猛威を振るうのは1975年に朴正熙大統領が、改憲議論の禁止を禁じる「緊急措置9号」を発表してから。1972年に維新憲法で独裁的な権力を手にした朴大統領は、大統領の鶴の一声で法律と同じ効力を持つことができるようになりましたが、この緊急措置9号を受ける形で多くの曲が「禁止曲」に指定されました。

洋楽では、ビートルズの「レボリューション」、

ボブ・ディランの「風に吹かれて」が反戦、反体制の曲として禁止されていました。

文中にあるクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」は「ママ、僕は人を殺してしまった」という歌詞が暴力犯罪を助長するとして、

サイモン&ガーファンクルの「セシリア」も、「セシリアと午後の情事を楽しんで、顔を洗ってベッドに戻ってきたら、誰かが僕の場所を奪ってしまっていた」という歌詞が風紀を乱すとして禁止になっていました。

今思えば何ともバカバカしい理由で禁止にしたものですが、韓国大統領の直属機関である放送委員会が「放送禁止曲」1752曲のうち847曲を解除したのは、民主化から7年が経った1994年8月12日のことです。

当時の韓国は放送できない曲がたくさんありましたが、道端には違法複製のレコードやカセットテープを売る店があり、大音量で曲がかかっていました。テレビやラジオのヒットチャートとは別に、民衆の間で流行っている音楽があるという意味で、길보드(アメリカの音楽雑誌ビルボードと、道の「길」をかけた造語)という言葉もありました。

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